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気まぐれに更新。

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なつ


 トマトの匂いが青く一面に立ちのぼっていた。土は今にも湯気が湧きそうな湿り気と熱を帯びていて、白い日差しの下、トマトの鮮やかさを際だたせる補色になっている。
 畑から足を舗道に戻せば、アスファルトは油の臭いを重く漂わせていて、それだけで家までの道のりが遠くなるようなけだるさを感じさせる。

「遅かったじゃない」
「うん」
「また畑覗いてきたの?」
「うん」
「模試の結果はどうだったの?」
「大丈夫だよ」
「夏休みが受験の天王山って言うように、みんな追い上げてくるんだから、今いい結果だからって油断しちゃ駄目なんだからね」
「うん」
昼ご飯にそうめんが出る日が何日続いているだろう。昨日届いたお中元でもまた贈られてきていたから、まだしばらく続くはずで、それを思うとなおさら口の中で崩れていくそうめんが味気なく、意味のない食事になってくる。
 刺激もない、変化もない。毎日がぜんぶ同じ色に見えてきて、今日は昨日となにが違ったのか見失いそうになる。そうめんの色に日々の個性が埋没していく。もしかしたら社会もこういうことなのかもしれない。みんな本当は違う色を持っているのにそうめん色の社会の中に紛れればぜんぶ同じに見えてしまう。よどんで変わらない大きな流れに隠される。たぶん、その中で、考えることをせずに済むのならば、それはきっと、とても楽だ。
 そうめんを食べ終えると部屋へ上がり、今日の分で出された宿題のページを開く。麦茶だけが減っていく。国語の小説を読む。問題を解くのでなく、ただの読み物として読む小説は好きだ。数学の図形を見る。証明しなくていいなら、図形は好きだ。英語も開く。模様として眺めるなら、英語は好きだ。でも、 それではいけないからとりあえず回答は埋めていく。単純作業をこなす手元から意識は離れ、鼻先に畑のトマトの匂いだけがはっきりと思い出される。先生の言っていたことはいつのまにか遠くて、平べったい、そうめん色の記憶になっていく。
 蝉の合唱が聞こえる。アブラゼミの声もクマゼミの声も大きくて、彼らのごま油の色をした絶叫ばかりがあたり一面に降り注ぐ。ひぐらしもミンミンゼミもツクツクボウシも押し黙っているかのようで、耳で探してみても少しも聞こえてこない。
 冷房の利いた部屋で、宿題も終えて蝉の歌に耳を澄ませることも終えると、三つ折りにして隅に置いたままにしてある布団を伸ばし、タオルケットだけをお腹にかけて目を閉じた。

 目を覚ましたときにも、まだ日は沈んでいなかった。窓を開けると、湿って生あたたかい風がまず太ももと頬を撫でるようにあたる。夕日は空の端で溶けて、熟れた杏の甘いだいだい色で空を染めていて、それを見つめたときに自分の口元から思わずため息が出るのを他人事のように聞いた。
 一日をどう過ごしても、こういう夕暮れは、今日が無為だったと言い切るような調子があって、日中の激しい日差しも、吹き出した汗も、むせるように立ち上るトマトやアスファルトのにおいも、すべてを包むかのような優しさと、突き放されるようなものさみしさを感じさせる。しかもそれは、とても回りくどくて、なんとなくにおわせるくらいで漂っているからこそ、まざまざと感じ取ってしまう、残酷なものさみしさだ。だから、なにもできなかったと思うことしかできなくなる。なにかしらはしていたはずなのに、なにもなかったと思うしかなくなる。こうして、どこへもいけないことをたしかめるようにして日が暮れていく。
 曜日感覚の薄れた意識の中で夕暮れだけが毎日目に焼き付いて重ねられて、鼻先のトマトの匂いと目の中の夕日の影だけが濃くなっていく。ふいについた二度目のため息は、蝉の合唱に紛れて埋もれていった。
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オーロラ

 最近のはすごいんだってよ。本物の星空より綺麗なくらいで、こっちに降ってきそうなぐらいの迫力だって。観た友達みんなそう言うんだ。
 彼は連れ添って歩いている女にそう声をかけた。彼女はうん、楽しみだね、と小さく相槌を打つ。うなずきながら伏せられた長いまつげが、ガラスのように透き通った瞳の上に魅力的な影を作った。
 彼が大学生二枚と言ってチケットを買う間も二人の手はゆるやかにつながれていた。チケット売場の女性はしばし彼らの姿を意味ありげに眺めたが、学生証を確認することもなく二枚分の値段を言った。

「本当にすごかったなあ」
「うん。びっくりしたね」
 彼は頬を火照らせ、ひどく興奮した様子で話し続けていた。そのせいで手に持ったハンバーガーの包みはほとんど手が着いていない。
「俺、オーロラの正体初めて知ったし、なによりあのプラネタリウムの映像が半端じゃなかった」
「光とか、臨場感とかね」
「そうそう、臨場感。本当にオーロラ見に行ったみたいだったもん」
「本物以上、かもね」
「ああ、かもしれない。でも本物は見に行けないから比較できないけどなあ、行くの大変そうだし」
 そう言って彼はようやくハンバーガーをむさぼる。彼女は瞳の色と同じ、澄んだ色のアイスティーをストレートで口に含んだ。そして、ストローから、陶器のようになめらかな唇を離すと、目を伏せぽつりと言葉をこぼした。
「にせものだから、プラネタリウムの中でしか見られないにせものだから、綺麗なのかもしれないね」
 その言葉に、彼は確かめるように彼女を見つめる。
「本物にある揺らぎとか不確かさを、そっくり取り除いて磨きあげた形が、あのプログラムなのかもしれないね」
「にせものは、嫌、なの?」
「わからない」
 彼は彼女の瞳をまっすぐに見つめ、口を開きかけてはまた閉じて、言葉の切り出し方を悩んでいるように見えた。そして、ようやく彼の喉から出てきた声は、漲る想いと緊張が詰まっているかのように、震えていた。
「俺は、にせものでも、お前が、この世で一番綺麗だと思ってるんだよ」
 彼女は今にも泣き出しそうに張りつめた表情で顔を赤くする彼の手を合成繊維の張られた手のひらで優しくさすり、表情筋のユニットを柔らかに可動させ、不純物のない笑みを彼に向けた。

パンケーキ

横から棺桶が流れてきた。
 邪魔なものが流れてくるものだと顔をしかめわきにやろうとすると、天井のスピーカーから柔らかな女性の声でアナウンスが流れた。
「お待たせ致しました。番号、九十一番様。ご準備が整いました。只今係の者が伺いますので番号札を掲げてお待ち下さい」
 見れば右手に握られたハガキ大のカードには呼び出されたその数が記されている。渋面で待ち構えていると果たしてスーツ姿の男が汗をとびちらせ駆けてきた。
「お待たせ致しました」
「それより、これ、なんとかならないの」
顎をしゃくって棺桶を示すと係の男はきょとんと首を傾げた。
「お客様のご希望のものでございますが」
「なんだって」
「では中身を確認いたしましょうか」
止める言葉を発する間もなく男は棺の蓋を外した。弁当箱の如く開けられ露出した中身に唖然としていると右手の番号札は取り上げられ、代わりに丁度ファミレスのパンケーキを切るのにおあつらえむき、といった面持ちの銀の食事用ナイフを握らされていた。
「ご注文の品は以上でお揃いです」
「でも、だって」
「お客様の中学生時代はパンケーキを切る程度の切れ味で十分と存じます」
「いや、嘘だ。もっとひどい目に遭っていた。こんなやわな代物じゃ殺せない」
 男は白い手袋をはめた手で棺桶の中身を撫で回した。その仕草に母を思い出し気分が悪くなる。大切に扱われるべきものではないのだ。
「どうなさいました」
「人のものを無闇に撫で回さないでくれるか」
棺桶からあわてて手が離れる。行き場を失って迷った放物線を描いた手は男の下腹部に行き着いた。
「すみません、妊娠二ヶ月なんです」
「そいつこそパンケーキを刺すナイフで十分じゃないか」
「まさか。彼女は牛刀でも持ってこなければ私の腹から露出してはくれないでしょう。
 それで、まだ決め手に欠けますか」
「うん、なんというか、派手さが足りない」
男は難しそうに俯き考えているが、右手は子宮の形をぐるぐるとなぞり続けている。チョークのような手に違いない。白く冷たい五本のチョークで執拗に愛撫される腹の子は、神経質な刺激に辟易してなかなか生まれてこないだろう。ピアノでも弾いていれば様になるだろうに、まったく哀れな男だ。
「それでは、お客様、こちらのナイフに変更しては如何でしょう。オプション料金がかかってしまうので三千円ほど割高になってしまうのですが……」
「なんで最初からこれを持って来ないんだ。俺は金ならあると言っただろう馬鹿たれ」
「申し訳ございません」
怒鳴り散らして男につかみかかってもよかったが、彼が流産したら洒落にならないことに気づき、フンと鼻を鳴らすにとどめて乱暴にナイフを手に取る。ファミレスパンケーキ仕様ナイフよりはましか。
「まあ、これならいいよ。じゃ、やるからさ、よく見とけよ。録画ってできるの?」
「可能です。セット料金に組み込んであります」
「撮りたいって人、やっぱり多いんだ」
「ええ、やはり人生の大きなイベントと捉える方が多いようで」
 そう言っている間に三脚が据えられカメラはいつでも撮影開始できる態勢になる。
「じゃ、いくよ」
「はい、どうぞ」
 豆腐よりも手応えがなかったらどうしよう。
 棺桶に横たわる中身にナイフが衝突する刹那、そんな不安が頭をよぎった。

月の光

あの人が思い浮かぶ時には、いつでも、一番美しい表情で、一番気に入っている仕草で、一番綺麗な部分だけが映るような角度でその姿は現れた。
 だからこそ、理想の言葉を並べたときそっくりの嘘くささが滲んでいて、自分の創作したあの人の理想像を崇拝しているだけに見えて、そのたびに心臓にアルミホイルが巻き付けられたように不安がまとわりつき、じくじくと全身を巡った。
 ぬくもりが少しずつ漏れだして温度が失われていっている指先が触れた喉は、大きく響く拍動の中に紛れる想いが声にならないもどかしさにかすれ、ただれた痛みのせいで荒い呼吸音を放っていた。
 熱いような、寒いような、布団をかぶっている意味のない寝床の中で、気がつけば両目から、はらはらと二筋の川が生まれていた。
 枕に顔を埋めてもあとからあとから無限に涙が湧いてきて、止まる気配がないことがたまらなく情けなく感じられた。
 あの人の、長く弧を描くまつげが瞬く姿、流れる髪の、永遠に見ていても飽きないように思われる姿、熱心に考えごとをしているとき子供のように半開きになる唇のふっくらとしていて、薄桃色に染まっている姿、瞳をのぞき込めた時にはじめて知った、紅茶色の暖かく澄んだ色をたたえた姿が次々に思い出されて、泣きじゃくっているこの瞬間にもあの人を求めて体中が甘い熱にうなされていることを知って、指先は細やかに震えていた。
 胸の中に、春の曇り空のような湿気と生温かさを含んでいるあの人への想いがこんこんと湧きだしていて、そのせいで涙はいよいよ止まらなくなっていた。
 思わずシーツを握りしめると、その先にさえあの人の腕があってほしいと願っている自分に気づかされて、それでいて、あの人に想いを伝えられるはずのない勇気のなさが薄いシーツの向こうに透かし見えていた。
 夜が早く終わればいい。そうすれば熱を持ち病的に肥大化したこの想いと付き合う時間から解放されるから。
 夜が永遠に終わらなければいい。そうすればあの人と顔を合わせることもなくて、想いを仕舞い込む必要もないのだから。
 私がどちらを願えばいいのか分からないままでいるせいで、秒針の刻んでいる音の間隔はとても中途半端な長さで部屋を満たしていた。ただ満月の白く、まっすぐに差し込んでくる光だけが、この部屋を貫いていた。

雪の糧

「雪はなにを食べて生きているのでしょう」
 白く塗り潰されてゆく景色を見てあの子はぽつりと呟いた。
「海にも雪が降るといいます」
「ええ」
「海の底に注ぐその雪は、深海の生き物の糧になるそうです。陸の雪だって、溶ければ草木を潤します。では、雪はなにを食べて生きているのでしょう」
 鈍色の雲は重く、電線に支えられてかろうじて宙に浮いている。しばらく雪は止まないだろう。
 あの子は眼球が落下してしまうのではないだろうかというほど目を見開いて、まだ窓の向こうを見つめたまま考え込んでいる。

「音を食べているのかもしれない」
「そうかもしれませんね」
 あの子はそれ以上言葉を接がなかった。
 耳が痛くなるほどの無音の中で、深海の雪に海の囁きが呑みこまれてゆくさまがふと頭の隅に浮かんだ。

        
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